この記事にあなたがたどり着いたということは、もしかしたらあなたもまた大学受験に悩まされていたり、不安を抱えて過ごしているかもしれませんね。
この記事では、俺が高校・大学と受験に2回も失敗したことについて時系列順に、物語風に書いていきます。
それでは、中学2年生あたりから振り返っていきますね。
目次(クリックでジャンプ)
中学2年生
中学2年生の頃、俺の人生の最大目標がなんだったかというと…
↑ぶっちゃけ、勉強している人の半分以上がこういう動機な気がする。ソースは俺。
ちやほやされたかったんですね。だから、当時はずーっとサッカーを頑張っていました。
中学生の頃って、なんか「足が速い人」とか「運動ができそうな人」とかがモテてたじゃないですか?(小学生もだけど…)
それに、自分が通っていた中学は割と “いい子” が多かったのでいわゆる不良みたいなのがいなかったんですよね。
だから、当時の環境としては「サッカーさえ頑張っていればまぁモテる」みたいな感じでした。
俺はやると決めたらとことんまでやるタイプだったので、めちゃめちゃ頑張って大会とかで結果を出したりしていました。
部活ではなくクラブチームだったので、とにかくみんなに「すげぇ!」って言われるためにはどうしたらいいかだけを考えてましたね。
そんなだから…
別に塾に行くわけでもなし、学校から出された宿題をこなすだけ。やれと言われたらやるけど、別にやらなくてもいいことはやらない、みたいな。
それでも “そこそこ” の成績をキープできていたのは、小学生時代の貯金の賜物でした。小学校でもそこそこ勉強はできていたので、スタートダッシュに乗り遅れなかったんですね。
ただ、その当時の俺はそんなこと気がつくはずもなく、
と思っていました。
いわゆる天狗ってやつですね。もうどうしようもありません。この辺りで一回ガツンとやられていたら人生変わっていたかもしれません。
そんなわけで、中学校ではほとんど勉強はしていませんでした。今思うと、これが後悔ポイントその1です。
中学3年生は神童だった?
そんなこんなで、いぶき少年はなんの挫折もなく上の学年に進みます。そして、いろんな意味で衝撃的な事件が起こります。 それは…
中学3年生の春はサッカーが神すぎた
サッカーの大会でそこそこの成績を収めてしまったんですね。どのくらいかというと県でベスト〇くらい。(あんまり詳しいこと言いたくないのでぼかしますが…)
チームとしても歴史のある方ではなかったのですが、それでも過去最高成績。しかも当時の俺は一丁前にチームのキャプテンみたいなことをやっていたので、それはもう喜ばしかった。
そして、有頂天でした。
中学生って、なんか漫画みたいなキャラにとっても憧れるじゃないですか。それでいうと、勉強が(そこそこ) できて、サッカー (スポーツ) もできるキャラクターになることができたんですよね。
今思うと、人生で一番輝いていたかも…
しかも、この時サッカー推薦みたいなのが (将来的に) 取れる確率が高まってたんですよね。
先生の言うことは絶対に聞くいい子ちゃんだったので、通信表もオール5手前でした。
なので、「別に勉強なんてしなくていっか…」みたいなテンションでした。
それよりも、このときはサッカーが楽しくてしょうがなかったので一生懸命にボールを追っかけていましたね。
中3の夏休みは “サッカーの夏”
こんなだから、中3の夏休みはサッカーしかしていませんでした。遠征が2回、普通の練習も週5回 + 土日は試合みたいなスケジュールで、それはそれは楽しかったです。
が、後で気がついたのですが、この時にいわゆる “トップ層” との差がじわじわと広がっていったみたいです。
正直、「塾は勉強ができない人が行く」ところだと思っていたくらい全く勉強に興味がなかったので、もちろん夏にやった勉強といえば学校で出されていた宿題だけ。
この頃は、どこの高校が共通テストを使って、どこの高校が独自入試なのか、や私立高校と公立高校の違いなどもはっきりとわかっていませんでした。
サッカーの方はというとまぁ大きな大会もなかったのでのんびりとできていました。今思うと、一番幸せにサッカーができていた頃だと思っています。
高校受験を決めたのは、秋頃だった
高校受験を決めたのは、中学3年生の秋頃でした。
今まではずっと勉強のそこそこな高校でアツいサッカーをやるつもりだったのですが、気が変わったんですね。
なんで気が変わったかと言えば…
模試を受けた人たちが「俺、A判定ー!」とか「アタシはCだー汗」とかやっているのがちょっと羨ましかったんですよね。
しかも、成績がいい人はちょっとかっこいいというか、やっぱり一目置かれるわけで、そうした和気藹々とした雰囲気が非常に羨ましかったみたいです。
成績的にはやっぱりまだクラスのトップの方だったので、志望校は県でトップクラスのところにしました。
周りからは大反対されました。特に予備校の先生からは「絶対に受かるはずがない!」というお墨付きをもらったほどでした。
意外なことに、唯一賛成してくれたのが、両親でした。俺の両親は「好きにしたらええ…」という感じで、放任主義だったんですね。
正直、「ここら辺で痛い目を見た方がいい」と思っていたのかもしれませんが、なんとか受験勉強を開始しました。
受験開始とともに、圧倒的な遅れに気がつく
受験勉強を始めてすぐに気がついたことは、「テスト勉強と受験勉強は全然違う…」ということです。
テストでは学年で5本の指に入っていた俺でしたが、テストとなると学校の中くらいの成績の人に散々に負けるレベル。しかも、全教科。
今まで持っていた自信や自負が、全てガタガタと音を立てて崩れていきました。
そこで潔く負けを認めて、そこそこの学校に入ったら幸せになっていただろうに、何を血迷ったか、俺は一生懸命に勉強をし出します。
今までは天才ぶって、「勉強なんてしなくても点数とれるべ!」みたいなことを言っていたヤツが、昼休みも問題集を解きまくっていたのですから、クラスのみんなからは結構笑われました。
結局、11月あたりから始めた受験勉強のおかげで、第一志望の高校を受けるくらいの学力は徐々についていきました。
ただ、時すでに遅く、伸びている途中で受験がきてしまいました。
高校受験、散る
受験の出来は、そこまで悪くなかったです。ですが、あと一歩及びませんでした。
「絶対に受かるはずがない!」と言われた予備校の先生には、「あんなこと言って悪かった」と謝らせるくらいには、成績は伸びていたはずでした。
でも、やっぱり何かが足りませんでした。勉強を始めるのは少しでも早かったら…と何度も悔やみました。
でも、結果は結果です。俺は、第二志望の私立高校に入学することになりました。
高校1~2 年生は落ちぶれていた
そんなこんなで、高校は第二志望の、いわば滑り止めのところに入学しました。
ぶっちゃけね、第二志望ですから。ゆうても俺は、中学校じゃ上から5番以内に入る成績(と思っていた) でしたから!
高校は、中学と違って同じような成績の子達が集まってくるので、かなり実力が似通っていました。
その上、受験で落ちたと言っても俺は「成績がいいけれどもたまたま落ちた」グループではなく、「落ちるべくして落ちた」グループの人間でした。(そのことに気がついたのもかなり後でしたが…)
というわけで、クラスでも中の中レベルでした。一応特進クラスだったのですが、特進がどうのこうの、というよりは俺自身が全く勉強ができていなかったです。
高校生活の、しかも最初の1年間はそれにショックを受けましたが、人間は恐ろしいものですぐに慣れてしまいました。
中学まではかなり上の方にいないと気が済まないタイプだったのに、高校になって丸くなってしまったのです。
部活動が鬼だった
一つ、言い訳をさせてもらえるなら、高校と中学との決定的な違いは、部活動が鬼畜モードだったということです。
具体的なスケジュールは、こんな感じ。
月曜日 朝練(7:00 ~ 8:30)
火曜日 朝練(7:00 ~ 8:30)、放課後練(15:45 ~ 18:10)
水曜日 朝練(7:00 ~ 8:30)、放課後練(15:45 ~ 18:10)
木曜日 放課後練(15:45 ~ 18:10)
金曜日 朝練(7:00 ~ 8:30)、放課後練(15:45 ~ 18:10)
土曜日 朝練(7:00 ~ 8:30)、午後練(13:45 ~ 18:10)
日曜日試合(だいたい9:00 ~ 18:00)
土曜日、午後からなのかと思うかもしれませんが、午前中は授業なんです。
このスケジュール、部活動で強豪校だった人からしてみれば、「なんだ、大したことないじゃん」とか思うかもしれないですね。
ですが、一般的な高校生から言わせてもらうと超ハード。しかもこれに加えて、家と学校のおよそ10 km を毎日チャリで往復(つまり 20 km) していたんだから、今思うと本当に恐ろしいです。
そのおかげで、体力にはかなり自身がありましたが、勉強がとってもとってもおろそかになりました。
ただ、勘違いして欲しくないのが、別に俺は部活動に恨みがあるとかじゃなくて、時間が取れなかったというただそれだけです。
部活は、体力をつけたり根性をつけたりするのにはうってつけでした。これは受験でもかなり力になった気がするので、感謝しています。
が、まぁその時間の分だけ勉強していればよかったと思わないでもないのが現状です。
この部活動は、本来なら高校3年生の秋まで続くものなのですが、俺は怪我ということもあって、高校2年生の秋に退部となりました。
高校2年生で勉強できない自分に気がついた
さて、部活動をやめて、自分に何が残ったのかといえば、勉強でした。もともと、部活とサッカーの両立をしようとして志望校を決めたので、勉強も頑張りたいと思っていました。
ただ、その時の成績はというと非常に好ましくない。
どのくらい好ましくないかというと、河合の全統模試で偏差値50、駿台の全国模試で偏差値が40でした。
クラスを見渡してみると、高校の入学時は中の中くらいだった成績が、下の方になっていることに気がつきました。
周りは自分が部活をやっている最中にも勉強をしていたのですから、当然といえば当然です。
ここで、俺に与えられた選択肢は2つでした。
1つは、高校生活を楽しむというものです。成績は悪いとは言っても、まぁ一応特進クラス。そこそこに勉強していれば、きっとMARCH あたりは狙えるくらいの点数なら取れるでしょう。
今まで部活しかしてこなかったので、その分2年生の冬から、青春を取り戻すというのも悪くはありません。
そして、もう1つの選択肢は、死ぬほど勉強する道です。文字通り、死に物狂いになって国公立の上位校を狙うという選択肢。
もちろん、全力を出したからと言って合格できるわけではありませんが、その可能性にかけてみるのも面白いと思いました。
ここが大きな人生の分かれ道になるということは、なんとなくわかっていました。
そして、そうした分かれ道のとき、俺はいつも信じていることがあります。それは、「迷ったら辛い方を選べばいい」ということです。
辛い方、というのは、みんなが選ばない方です。いわば、逆張り。そっち?って思う方。
例えば、希少性の面から考えてみるとわかりやすいです。多くの人が普通に手にいれることができる河原の石と、めったに手に入らない貴重な宝石だったら、どちらの方がよりお金になるかといえば、もちろん宝石ですよね。
それと一緒で、めったに人がやらない方に行くというのは、それだけで価値があるのです。
もちろん、すべてのケースに当てはまるとは思いませんし、それ以外にもちゃんと理由はあります。
多くの人に自信を持って勧められるとは思いませんが、今でも高校生に面と向かって進路のアドバイスをしたりするときは、この話をすることが多いです。
だから、俺はここで “勉強するいばらの道” を選びました。
この選択がその後の人生を変えたといっても過言ではありません。俺は、魔窟に足を踏み入れてしまったのです。
志望校は… とりあえず東大いきます
そこから待っていたのは、ひたすら勉強の毎日でした。
朝起きてすぐ勉強、学校に行って授業、お昼休みに自習室、放課後に図書館、夜に家で勉強…
こんなスケジュールを黙々とこなしていきました。
もともと勉強時間が足りていない自覚があったので、ちょっとやれば普通にクラスの平均くらいにいけると思っていました。
罪なのは、ここで本当にクラスの平均に到達してしまったことです。
考えてみれば、2ヶ月くらい頑張って勉強したところで成績が伸びるというのはそうあることでもないんですよね。
ただ、このときは勉強時間と成績が比例して伸びていったので、
という気分になってしまったんです。
そうしてちょっと自信を取り戻した冬休みの前、いよいよその時が訪れました。
そう、進路相談です。
ここで、やらかしてしまいます。
俺の心境としては、「今は勉強したいんだから、志望校とか調べている時間はない。とりあえず一番上の大学を口にしておけばいいだろう…」というものでした。
ただ、先生の反応は違いました。
うちの高校は、高校から就職する人や推薦で私立校に行く人も多かったので、東大なんて何のことかさっぱりわからない様子でした。
ポカーンとされたのを覚えています。
しかも、この当時はクラスの中の上くらいの成績だったので、本当に「こいつは何を言っているんだ…」状態でした。
あとで聞くと、先生はこのときは冗談か何かだと思ったとのことでした。まぁ、気持ちはわからないでもないですが…
先生は、「まずは模試を受けてみなさい」とだけ言いました。
俺は、「まぁ妥当な反応だなぁ」と思っていました。
最後に模試を受けたのが、半年前とかだったので、部活をやめて2ヶ月勉強に打ち込んだのだから、偏差値の10や20は上がっていると思っていたのです。
来たる模試は、冬休み明けの1月の中頃。
それに向けて、さらなる勉強を積み重ねました。
模試で惨敗する、高校2年の1月
結果からいうと、惨敗でした。
偏差値は少しも上がらず、むしろ下がっている教科もいくつかありました。
勉強に秋、冬の全てを捧げた俺にとってはかなり重いパンチでした。
その時に知ったのは、
- 小学校から死ぬほど勉強をしている人がいるということ
- 有名進学校は2年の冬には3年の範囲まで終わっていること
- 今までの自分が “勉強” と呼んでいたものは基礎の基礎だったということ
- そして、その “基礎” もできていないということ
でした。
まぁ、ここまで色々ありながらも順調なコースを歩んできていた俺にとっては、本当に効きました。
受験は学校の奴らと競っている訳ではない、有名進学校の出身者を蹴落とさないと、自分の席はない
でも、甘かったのです。
勉強というものの認識を、根底から変えなければならないと思いました。
高校3年生で巻き返しを図る
そうして、ついに高校3年生が始まりました。
焦りから、俺は河合塾に通うことにしました。
英語だけでしたが、そこでもかなりいろんなパンチをお見舞いされました。俺より “格上” の人というのを、初めて見ました。
前期は、もう本当にひたすら反復
足りないものは、もうしょうがない。
考えてみれば、高校2年生の秋頃からポンと勉強を始めたような俺が東大を狙うというのは、創部2年目の高校が甲子園を狙うようなものでした。
- メンバーもいない
- 1,2 年生だけ
- 監督は野球経験なし
そんな状態で、都道府県大会で優勝しよう!みたいな感じだったんですね。
かなり大げさに聞こえるかもしれませんが、数字的にもかなり近いものがあると思っています。
だから、もう一回基礎に立ち返って、徹底的に勉強しなければいけない、と思いました。
そこで、高3の春は、授業と並行してひたすら基礎を叩き込みました。
基礎というのは、教科書レベルの問題からもう少し難しい基礎を使ってやりくりするような問題です。
この時期は、もう結果に繋がるかはわからないままにひたすら作業のように勉強をしていました。
この頃から、俺の偏差値は目に見えて上がるということはないものの、下がることもなくなりました。
今思えば、この頃にやっていた地道な勉強のおかげかな、と思いました。
とはいうものの、高校3年生になると周りが頑張りだすので、今の成績をキープするのもぶっちゃけしんどかったです。
でも、俺は絶対に東大に行ってやる、という強い気持ちを持って頑張りました。
職員室に通い詰めるようになったのは、この頃からだと思います。
各教科のわからないところがあれば質問しに行き、わざわざ宿題を増やして欲しいとお願いしに行ったり…
もし、この記事を受験生が読んでいてくれたら、アドバイスとして「先生は味方につける」ことをお勧めします。
先生たちは、
- 俺はこういうことをやりたい
- 今、これだけ成績が足りないけど何をやればいいかわからない
- これをやってきたから、採点してほしい
といえば、かなりの確率でオッケーしてくれると思います。
特に、俺の出身校のようなところは他にそういう生徒が少なかったので、かなり手厚く指導を受けることができました。
先生に「これやる」というと、頑張らなければならなくなるし、そうやって一生懸命にやっていたら先生たちも納得してくれるはずです。
一念岩をも通す、とはよく言ったもので、6月くらいからだんだんと成績が伸びていきました。
それも、「微妙に上がってる」というのが良かったです。
ここで慢心せずに、夏に入ります。
勝負の夏休み、ゴリゴリ特訓
さて、受験の世界では、「夏を制すものは受験を制す」という格言があるのはご存知ですよね?
俺もその言葉を知っていたので、ひたすらに勉強していました。
この頃から意識していたのが、「苦手だった数学の克服」です。
この当時、数学以外の主要3教科(国語・英語) はギリギリなんとか合格狙える圏内に近づいていました。
また、それ以外の物理・化学もそれほど足を引っ張らないレベルには到達していました。
ただ、俺の欠点は数学でした。数学は、判定でいえばDとかEとか。これをなんとかしなければ、と思いました。
そこで、数学にかなーりの時間を費やしました。割合でいうと、数学を全体の半分くらいの時間をとっていた気がします。
夏期講習などでも、数学を重点的にとって、授業以外の時も出来るだけ数学の問題を解いたり公式の証明をしていました。
そのおかげか、徐々に数学への苦手意識は薄れていきました。ただ、それでも数学単体でC~D判定あたりをうろついていたので、もうやばいと思って必死に勉強しました。
あとは、そのせいで英語や物理などの点数が少し下がってしまい、結果として成功かは微妙なところでした。
特に数学と化学に力を入れていたこともあって、英語に全然手をつけることができなかったのは反省しました。
英語は、毎日コツコツやるのが肝心なので、せっかく覚えたはずの英単語や文法事項が抜けていたのは痛かったです。
それは、「ここまで勉強できるんだ!」という自信です。
夏は、毎日24時間使うことができるので、体力勝負になります。土日だけ1日10時間勉強するのは意外と誰でもできますが、これを1ヶ月続けるのは大変です。
それができたということは、自分のなかに大きな支えになりました。
これから、このペースで勉強することができれば、もっともっと伸びるぞ、と頑張ることができたのです。
その点で、勝負の夏は俺の勝ちでした。天下分けめの戦いの勝利の女神は、この時は俺に微笑んでいたはずでした。
秋、予備校からの最後通達がくる
とまあ夏までは調子の良かった俺なのですが、秋の1発めの模試は散々な結果に終わります。
なんと東大D判定。しかも、CよりのDとかではなく、 紛れもなく、D。
ただ、俺の中では、その原因はわかっていました。それは、ケアレスミスです。
数学の、みんなが満点をとっているような大問をごっそり落としていて、そこで20点くらいの差がつけられてしまったことです。
20点というのは多いか少ないかは人によって違うと思いますが、1点を争うような試験ではかなりの差がつくことが多いです。
特に、レベルが上がれば小数点の争いになることもあるので、かなりシビア。
事実、その模試でも数学が20点取れていれば、明らかにB判定でした。
そこで、俺はこう思います。
愚かな高校3年生当時の俺は、この時はまだ気がついていなかったのです。
- ケアレスミスをしているのは俺だけではないこと
- そのミスをなくすのがいかに難しいことか
- そもそも、なぜケアレスミスをするのか
一応書いておくと、最後まで、つまりは浪人して、京大の2次試験のその時まで、俺のケアレスミスは消えることはありませんでした。
この「D判定」の結果を受けて、予備校は当たり前のように志望校を変更するように言ってきました。
俺は、この時は無敵モードだったので
と突っぱねました。
この時は、だいたい多くの人が最終的な志望校を決めるような時期だったので、「これで引き返せないよ?」と最後の通告をされました。
俺はもともと後ろに道があるんなんて思っていなかったので、全然第ジョーブだと思っていました。
そもそも、後ろを見るくらいなら最初から受験なんてしてねーよ、とこういう感じです。
また、秋からは学校の授業は大学入試のための問題をやってくれる教科もあったので、ここからは勉強は伸びるという確信がありました。
ただ、これを読んでいる受験生に言っておきたいのが、「勇敢」と「無謀」は紙一重だけど、やっぱり違うということ。
ま、どっちがいいかは結果からしかわからないことも多いのですが、俺の場合は完全に無謀な賭けでした。
よく、成績は最後の方にグーンと伸びるといいますよね。特に現役生なんかは、後からどんどん追いついて最後には浪人生を抜かすという、あれです。
でも、あれも「伸びる人」と「伸びない人」がいるということ、そして自分は「伸びない方」である可能性があるということは知っておいた方がいいと思います。
事実、俺はここから成績はあまり伸びずに冬を迎えました。気持ちは崖っぷち、まさに地獄でした。
東大は、センター試験で足切りという制度がありました。センターで7割以上取らなければ、2次試験の資格すらもらえないのです。
この当時の俺は、2次試験の対策ばっかりをしていたので、センターの足切り点もギリギリクリア、というレベルでした。
ただ、センター試験でいくらいい成績をとっても2次試験で取れないとパーになるので、結局秋は全て2次試験に費やしました。
受験生の冬
センター試験の勉強は、1ヶ月くらい前、つまり12月の頭から始めました。
俺はどちらかといえばセンター試験は向いていたので、その当時は8割ちょっとを安定して撮れるようになっていました。
ここまででも、俺は先生たちに驚かれていたのですが(俺の高校は、センター8割取れれば職員室の人に顔が効くようになります) 、俺は「絶対に9割だ!」と意気込んでいました。
それもそのはずで、この時もまだ2次試験の点数が思うように取れていなかったからです。
なので、せめてセンター試験では合格者平均点をとってやろうと、死に物狂いで勉強しました。
センターは、ぶっちゃけていてば “暗記” と ”スピード” です。多くの高校生は、たくさん覚えて、早く解く、という壁にぶち当たると思います。
ただ、この問題の解決策はわかっていたので、ゴリゴリにやりとおしました。それは、徹底的な反復です。
なんどもなんども、場合によってはお全く同じ問題を解いたりすることによって、スピードをあげ、頭に問題を叩き込みました。
多分、センター試験の過去問は予備日の問題も含めて10年分以上やっていたと思います。
その効果が出たのか、新年を迎える頃には9割取れる年も出てきました。
さらっとクリスマスやお正月を飛ばしましたが、高校3年生のこの年は、イベントらしいイベントは1つもありませんでした。
そして、とうとうセンター試験を迎えました!
激闘!センター試験
結果から言うと、まずまずでした。確か8割ちょっとだったはずです。
ここで失敗していれば、京都大学という選択肢も見えていたかもしれませんが、そこそこ取れてしまったので、もうどうしようもありません。
センター当日はそれはそれは寒かったことをよく覚えています。
ただ、当日の出来がどうだったとか、そういうのは全く記憶にありません。
自己採点をその日に行いましたが、それが一番緊張しました。地理で3問連続 × だったときは、心臓が破裂するかと思いました。
センター8割ちょいで東大に合格する人というのは、いうまでもなく少数派です。もしくは、そういう人はセンター試験対策を全然してない人たちでした。
でも、あと1ヶ月もあれば、伸びるかもしれない。そう思い、東大受験を、決意しました。
とそれまでは良かったのですが、センター試験を終えると、ふっと気が抜けてしまいました。
これは、俺だけでなく多くの受験生に見られることでしたが、センター試験後に魂が抜けたようになっていた人も多く見かけました。
一回やりきってしまうと、どうしても身が入らないのです。
二次試験まで一ヶ月きっているのに、全然集中できませんでした。
また、この頃から私大の対策が始まりました。押さえではあるものの、やはり受ける以上は過去問を解いておきたいということで、それぞれ3年づつくらいやりました。
よく、受験業界で「早稲田に落ちたけど、東大に受かった」みたいな人を見かけますが、そのほとんどが「たまたまできた/できなかった」からという理由と、「大して対策をしてなかった」から、という理由が合わさったものではないかと思います。
あと、ここで書いておきたいのが、「センター試験の勉強」ばっかりをやっていると、二次試験の問題が解けなくなる現象があるということです。
センター試験は、全問マークシート問題なので、頭をひねったり計算をゴリゴリやるような問題はありません。ようは、頭を使わないで解けるのです。
それに比べて、二次試験は応用問題だったり一筋縄ではいかないような問題ばかりなので、傾向が全く違います。
そのため、俺はセンター試験を受けた後、しばらく二次試験の問題が全く解けませんでした。
これは、俺だけでなく京大の友人もそうだと言っていたので、ある程度の人には当てはまると思います。
読んでいる受験生は、自分の時に「と…解けない!」とパニックにならないように覚えておいて下さい。
ただ、センターの勉強をしていたからと言って、2次試験の点数まで上がった、とかそういうのはなかったです。
二次試験、散る
いよいよ、運命の二次試験。だったのですが…
最初から言っていたように、結果は惨敗。後1点…とかそういうドラマはなく、普通に落ちました。
それは、次のようなものです。
勉強している人は受かる。何の偶然もなく、何のドラマもなく。
正直なところ、実力的には全く合格点に届かない、ということはわかっていました。ただ、数学の1問をいつもより余分に解ければ、絶対に合格する自信がありました。
なので、奇跡を1つ、引き当てれば受かると思っていたんです。
そして、俺はそういう時に引き当てる人だと、なんの根拠もなく思っていました。自分は持っている人、という、何かしらの自信があったんですね。
でも、そんなことは一切なく、普通に不合格でした。
普段やっていること以上のことが、テストでできるはずもなく。俺だけが解ける問題があることもなく。やはり圧倒的に、実力が足りなかった。
まぁ、落ちるとは思っていましたが、やっぱりショックでしたね。俺はなんのドラマもなく、普通に不合格でした。
東大の2次試験は、数学の試験時間が2時間30分だったりとかなり長い割にやらなきゃいけないことが多いので有名なのですが。
問題が手につかないと、それが異常に長く感じられるんです。解けない問題を眼の前にして、必死に頭を使っているふりをして…
隣の生徒のシャーペンの走る音だけがずーっと聞こえてきて。そんな時に、自分の能力不足というか、勉強不足を痛感しました。
この映像は、浪人中の俺をずーっと苦しめました。たった2日のこと、言ってみればテストで点が取れないだけで、こんなにも辛いのか、と思いました。
しかも、それは今でも夢に出てきます。1浪して京大に合格しても、現役時代に東大に落ちた、という事実は消えてなくならないし、あの時に感じた無力感も、ずっと残り続けます。
そんなこんなで、俺の現役時代の受験は終わりました。
悔しかった、もう少しだった、という感情よりも、無力感というか、脱力感が残りました。
春来れども、花咲ず
こうして、俺の高校生活は終わりました。
高校受験に失敗し、部活動では思うように結果を出せず、大学受験にも落ち…こう書いてみると、散々ですね。
確かに、東大を受験をすると決めた高校2年生のあの秋よりは、幾分か勉強ができるようになった、という自覚はありました。
でも、それだけです。それ以上のものが、俺の高校生活にあったかといえば、なかったかもしれません。
周りは、よくやったと言ってくれました。確かに、滑り止めの私立だって、そのレベルの大学に俺の高校からは10人もいけないと思います。
でも、所詮はその程度、と言ってしまえばそれまで。当時の俺は、そんな風に思っていました。
正直、浪人を決めた時は、受験に対するモチベーションなんて全然ありませんでした。
ただ、この、落ちて悔しかった、という思い出を美談にしたくなかった。頑張ったんなら、それでいいじゃん、というそういうお話にしたくなかった。
今思えば、これは「俺がどれだけ受験に賭けていたのか」を、周りの人に示したかったという幼稚な行動だったのかもしれません。
あの時、滑り止めの大学を選んでいたら、どうでしょうか?俺は、たびたび空想します。
滑り止めで入った高校は、案外楽しいものでした。「住めば都」というように、自分の環境に楽しみを見出すのが人間なのかもしれません。
ただ、だからこそ第一志望で入りたかった高校に行けていたら、もっと楽しかったのかな、という空想は、大学生になった今でもしてしまいます。
もし、俺が、あの滑り止めの私立大学にそのまま入学していたら、どうなっていたでしょうか?
多分、今よりもずっと楽しく生活をしていたと思います。
ただ、その裏にはきっとドロドロしたものは消えず、心にそれを持ったまま、一生眠れない夜を過ごしたかもしれません。
そうは、なりたくなかった。自分の中で、 “逃げなかった” という、そういう自信が欲しかった。
かくして、俺は予備校の門を叩くことになりました。
浪人時代:闇
こうして、俺の浪人時代が幕を開けます。
人生の中で、これほどまでに何か1つのことに熱中する時期は、もう来ないかもしれません。
浪人時代のことも色々書きたいことがあるのですが、長くなりそうなのでまた今度にしたいと思います。
ここまで読んでくれた人に最後の一言。途中にも言いましたが、俺が現役時代に感じた一番の教訓は、「自分は、どうせ何かの力が働いて受かるだろう」みたいに思わないことが肝心、ということです。
と思うかもしれませんが、どっこいそうではないのです。
多分、誰でも心の中で、「どうせなんとかなる」、「12月に入れば成績が上がっていく」と思っていると思います。
ただ、そんなことはありません。
受験はよくマラソンに例えられますが、受験において偏差値を上げるということは、前を走っているランナー、しかもその人も死に物狂いで走っているランナーを、何人も追い越していくことなのです。
受験にドラマはありません。なんのドラマもなく、普通に合格したり、普通に不合格になったりします。
ぜひそのことを、頭に留めておいてください。
ただ、これは決して「志望校を下げろ」とかそう言っているのではありません。
※むしろ、俺は会う人ほとんど全てに志望校のランクを上げろ、と言ってます。
ただ、油断・過怠、そうしたものは受験において最も忌避すべきだ、ということです。
長くなりましたがこれが俺の不合格物語。
第二章、浪人生編があれば、その時にまたお会いしましょう。